非対称の愛しさ 〜思い出になってしまったお店〜
以下の記事は2005年10月にアップした記事に対する67歳になった自分の答えです。
まずは、元記事です。
好きなお店には、不思議な非対称性がある。
客である私は、そのお店のことを「特別な場所」として心に刻んでいる。でもお店の側から見れば、私は何百人、何千人というお客のうちのひとりに過ぎない。関わり方の重みが、まるで違う。
50代の頃、そのことに改めてはっきりと気がついた。そして、どんなに好きなお店でも、店主と客の関係については冷めた見方をしなければいけない、と自分に言い聞かせるようになった。非対称性を知ってしまった以上、それが「大人の正直さ」だと思っていたのだ。
でも67歳になった今、その先にあるものが見えてきた気がする。
重みがどれだけ違っていても、心に痕跡が残ったという事実においては、お互いが対等だ、ということ。
あのモーツァルトのカウンターで過ごした時間は、私の中に確かに残っている。店主の前田麗子さんがどれほど私のことを覚えていたかどうかに関係なく、その痕跡は変わらない。そして逆もまた、どこかで成り立っているかもしれない。前田さんの心の中に、私が気づかない形で何かが残っているかもしれない。
そう思うと、非対称であることが、それほど寂しいことではなくなってくる。
そしてもうひとつ、気づいていることがある。
私もまた、誰かにとっての「あのお店」や「あの人」になっているかもしれない、ということ。
ライブで演奏した曲が、誰かの心のどこかに残っているかもしれない。たまたま交わした言葉が、誰かの記憶の片隅に生きているかもしれない。でも私はそれをまったく知らない。自分が非対称のもう一方の側にいるとき、相手の心に何が残ったかを、こちらから知る術はない。
非対称性は、関係の欠陥ではない。それが人と人との、あるいは人と場所との、自然な形なのだと思う。
それを知った上でなお、あのお店が好きだったと言える。その気持ちは、若い頃よりずっと静かで、ずっと豊かだ。
これから先も、こういう視点から人間関係を受け止めていきたいと思っている。


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