愛情が足りない世の中
<2000年代に書いた記事の改稿>
ちょっと重たい話題だけど、書いておきたい。
生き物をモノのように傷つける事件や、家庭内暴力のニュースが流れるたびに、必ず出てくる言葉がある。
「親の育て方が悪い」「義務教育のあり方が問題だ」「社会構造のせいだ」「差別や貧富の差が原因だ」――。
原因はきっと一つじゃない。でも、結果として起きていることは案外シンプルで、人間として、生き物としての「愛情」が足りなくなっている。ただそれだけなんじゃないかと思っている。
愛情は、心の中に貯まっていく
自分以外の人間や動植物に対して愛情を含んだ行為をすると、その愛情は自分の中にも積もっていく気がする。行為をした人にも、された人にも、同じように。愛情を伴った行為を受ければ受けるほど、そして行えば行うほど、心の中には愛情が貯まっていく。
ただし条件がある。愛情を伴った行為は、相手に伝わらなければ意味がない。いくら内心で愛情を燃やしていても、相手に伝わらなければ、相手の中には何も残らない。その行為によって相手が「愛情を受けた」と実感すること――それが大切だ。
だから、子供が危険なことをしてほっぺたを叩く、という行為も、親が本気で子供の安全を思ってやったことなら、子供にはそれが伝わるかもしれない。でも、それが単なる親のイライラのはけ口だったら、子供はただ暴力を振るわれたとしか受け取らないだろう。結局、相手がどう感じたかで、愛情が貯まるか減るかが決まっていく。
そして逆に、憎しみを含んだ行為や暴力行為をすれば、その憎しみの強さに比例して、行為をした人もされた人も、心の中の愛情は減っていく。
こうして貯まった愛情が多ければ多いほど、人は自分以外の存在にやさしくなれる。もちろん自分自身にも優しくなれる。それが「愛情力」だと思う。
好循環と、うまくいかない現実
人は生まれてから大人になって独立するまで、親から無償の強い愛情を注がれ、心の中に愛情をたっぷり貯めることができる。そして気の合う友達や愛する人が現れ、結婚し、子供が生まれ、その愛情を相手に注ぐことで、さらに自分の中の愛情も増えていく。
――というのは、一番うまくいったときの好循環の例であって、現実はそんなに甘くない。
喧嘩をしたり、いじめたりいじめられたり、騙し騙されたり、誤解し誤解されたり。日常生活の中で、心の中の愛情はどんどん目減りしていく。ごく普通の家庭でも、なかなか貯まっていかないんじゃないかと思う。
さらに、親からの愛情が薄かったり、親がいなかったり、陰湿で継続的ないじめにあったり、犯罪に巻き込まれたり、親から暴力を振るわれたりしたら、大きなダメージを受けて、心の中の愛情がすっかり枯れてしまうかもしれない。
テレビで暴力的なシーンを見るだけでも減るだろうし、理不尽なニュースを知るだけでも減るかもしれない。殺戮を繰り返すようなゲームをやっても、たぶん減っていく。
愛情が枯れるとどうなるか
心の中の愛情が減っていくと、ちょっとしたことで怒りっぽくなり、負の感情を周囲に撒き散らすようになる。それでまた自分の中の愛情も減っていく――そういう悪循環に陥る。
そしてついに、心の中が愛情不足を通り越して、憎しみのほうが優勢になる。そうなると、その人の行為はすべて憎しみ寄りに傾いてしまう。たとえ本人が愛情を注ごうと思っていても、その行為はなぜか憎しみを伴ったものになってしまうのだ。
子供を虐待した親の手記を読むと、「やってはいけない」と思えば思うほど虐待してしまう、という話が出てくる。何をやっても憎しみが拡大するばかり。そうなると、あとは他人からの愛情を受けてそれを埋めていくしかないのだけど、周囲を憎しみで染めてしまうような人に、無償の愛情を注いでくれる人などそう簡単には現れない。一度枯れきってしまうと、そこから抜け出すのは本当に難しい。
こういう、心の中の愛情が枯渇してしまった人が、最近増えているんじゃないかと思う。憎しみが憎しみを呼び、社会全体に波及していく。そういう世の中になってきているのかもしれない。これを書いている自分自身も、もしかしたら今、その方向に向かっているところなのかもしれない。
「ありがとう」が増やすもの
「ありがとう」と感謝すると、心の中の愛情は増えるようだ。体力をつけるために運動をするのと同じように、いつも感謝の気持ちを忘れず、それを具体的に表現する習慣をつけて、「愛情力」を日常の中で蓄えていく。それが、愛情が枯渇しやすい現代を生きていくための必要条件なんじゃないかと思う。
では、すでに心の中が枯れてしまっている人は、どうしたらいいんだろう。「ありがとう」が言えればいいけど、それが言えないから枯れているんだよな、というのもわかる。そういう人には、心の向きそのものを変えることが必要なのかもしれない。「憎しみから愛情への心の行先の変更」だ、どれだけ憎しみに傾いていても、向きさえ変われば、そこから愛情を注ぐ側に回ることができる。
残念ながら、その向きを変える方法を自分は知らない。でも、大変な苦労を重ねてきた人が、晩年には素晴らしい人格者だったりする。きっとどこかの時点で、心の向きが変わったんだと思う。
脳の中のスイッチが、ひとつ切り替わっただけなのかもしれない。このスイッチを切り替えるものが何になるのかは人それぞれだろうし、もしかしたら単純に少しずつ他人からの愛情を受けて、ある日突然、向きが変わることもあるんじゃないだろうか。
それでも、日本にいる
日本国内がこんな状況だからか、海外に移住したいと思う人が増えているらしい。「そんなに甘くはないよ」というのが事情通の言葉だけど、たしかに真剣に検討したくなる気持ちもわかる。
でも、冷静に考えると、学校のいじめも、政治家や役所などの権力者の横暴も、自分が生まれた昭和の時代のほうが、ずっとすごかった。貧富の差も激しかったし、愛情力の差もきっと激しかったはずだ。
じゃあ、何が違うのか。それはやっぱり、心の中の愛情が枯れてしまった人が急激に増えていて、社会全体が殺伐としてきた、ということなんじゃないかと思う。
これからの話(2026年追記)
なんとなく、この愛情不足減少問題は今が最悪の時のような気がしている。平成の時代に、人の価値を計る物差しは「カネ、権力、カッコ良さ、数値化できる能力」に収束して「心」が置きざれにされてきた気がする。この30年間は全てが勝ち負けで評価されてきた。愛情を注ぐ行為はコスパは当然最悪だし損得抜きだからどんどん軽視されてきた感じ。
だけど令和8年、ここにきて、今までの「価値観のベース=平成の常識」がどんどんと力を失ってきている。新聞社・TV局の没落、金利ゼロの終焉、政治においては右派と左派の対立構造の瓦解、、、ちょうどいま現在、平成の価値観崩壊の真っ最中で、これからも色んなことが起こるはず。
そして、その後に残るのは、「心」を大切にする社会がやってくる、やってきそう、やって来て! と願う毎日なのだ。

コメント